業界動向
早世された任天堂社長の岩田 聡氏を偲んで。西田宗千佳氏が語る「任天堂における岩田氏の功績と蹉跌」
2015年7月11日,任天堂の岩田 聡氏が逝去した(関連記事)。その訃報を耳にして,驚かなかったゲーマーはまずいないだろう。2002年に同社社長に就任して以来,「ニンテンドーDS」や「Wii」といった大ヒット商品を世に送り出した立役者が亡くなったことに,国内外問わず多くのゲーマーやゲーム業界人が,哀悼の意を表していた。
その岩田氏を追悼するコラムを,フリーランスジャーナリストの西田宗千佳(にしだ むねちか)氏が,同じくフリーランスジャーナリストである小寺信良氏と共同で発行している有料メールマガジン「小寺・西田の『金曜ランチビュッフェ』」で発表している。そのコラムは,岩田氏が任天堂で成し遂げた成功といった輝かしい面だけでなく,近年におけるビジネスの苦戦とその理由まで分析した興味深い内容で,4Gamer読者にも広く知っておいてほしいものであった。そこで今回は西田氏の許可を得て,コラムの全文をここに掲載することにした。ぜひご一読いただきたい。
追悼:任天堂・岩田 聡社長
筆者は残念ながら,岩田氏との1対1でのインタビューの経験はない。宮本 茂氏とはインタビュー経験があり,「いつかは……,次こそは岩田さんを……」という心算でいた。だがもはや,それも叶わない。
多くの業界人が,そしてゲームファンがそうであるように,筆者も岩田氏を強く尊敬している。彼がいなければ世に出なかったものはたくさんあるし,技術者としても経営者としても,稀有な人物だったと思う。喪失感でいっぱいだ。
一方で,岩田氏の功績については,いろいろと誤解もあると感じる。また,任天堂のここ数年のビジネスについて,岩田氏には誤謬もあったと考えている。故人に対して敬意を示すためにも,また,故人の業績を正しく理解するためにも,筆者の考える「任天堂における岩田氏の功績」を分析しておく必要はありそうだ。
カリスマプログラマーから経営者へ
岩田 聡氏が任天堂に入ったのは2000年のことだ。
それまで彼は,学生時代からソフト開発の現場として,株式会社HAL研究所に勤めていた。HAL研究所は,当時パソコンマニアだった岩田氏らを集め,起業する形で生まれたベンチャー企業だった。1983年,任天堂がファミコンを発売すると,HAL研究所は任天堂より委託を受け,数々のゲームを開発することになる。それらのソフトは,ほとんどが任天堂ブランドで発売された。今でいう「ファーストパーティー」ソフトといえる。
1992年,HAL研究所は経営破綻している。その際,最大の取引先である任天堂から支援を受け,再建を果たした。支援する条件のひとつは,「岩田 聡を社長とすること」だったという。当時の任天堂の社長は山内 溥氏。ゲームメーカーとしての任天堂を作り上げた,カリスマ中のカリスマだ。山内氏は,エンジニアとしてはもちろんだが,それ以上に,岩田氏の経営者としての資質を買っていた。HAL研究所の経営状態を立て直したのち,岩田氏は山内氏に請われて任天堂入りする。それが2000年のことである。
山内氏はこの頃から,岩田氏を将来の社長候補として考えていたようだ。そしてその後,2002年6月,任天堂の社長に就任している。
当時任天堂は,業績面で苦戦を強いられていた。岩田氏は,基幹商品であるデスクトップ機「ゲームキューブ」のアーキテクチャ選定とビジネスモデル構築を任せられた。ゲームキューブは苦戦したが,その後,2004年12月に発売した「ニンテンドーDS」の成功により,岩田任天堂は大きく成長していく。
「ハードとヒットゲーム」の二輪で空前の成功
現在は「任天堂の携帯ゲーム機の本流」という印象の強い「二画面スタイル」だが,実は当時,任天堂社内には,携帯ゲーム機として2つのラインが動いていた。ニンテンドーDSと,古典的携帯ゲーム機である「ゲームボーイアドバンス」(以下,GBA)の後継機種,開発コード名「Iris」だ。ニンテンドーDS発表から発売後しばらくまで,任天堂はGBAの後継はDSでなく,DSは独自路線のゲーム機である,という言い方をしていた。任天堂の内部で,岩田氏は社長ではあるが独裁的な存在ではなく,過去からの継続を含め,戦略を合議制で進める形になっていた。そこは,カリスマで率いる山内氏の時代とは違った。ニンテンドーDSという新機軸と,延長モデルであるIrisは別の開発チームで作られており,岩田氏は,どちらかと言えばDS側であった,と聞いている。Irisがどんなゲーム機だったのか,結局発売されなかったため,今となっては知る由もない。だが,DSにおいて岩田氏が主導したやり方の成功が,Irisを不要なものとした,ということは間違いない。
岩田氏がDSで採った策は,二画面とペン,タッチセンサーという要素を生かす「Touch! Generations」というブランド戦略だ。このブランドがつけられたソフトは,ゲームにこだわることなく,知育や辞書などもあった。大ヒットした「東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング」(通称脳トレ)も,このシリーズである。
ゲームは登場から20年が経過していた。携帯ゲーム機も15年の月日を重ね,基本的な中身についての周知が進んでいた。「面白いが難しい」「ゲームファン以外には縁遠い」という,今でも根強く残る印象が付きまとう市場であったわけだ。ゲームの市場を拡大するには,今までにない市場を切り開く必要がある。だからこそ,ニンテンドーDSを「ゲームの常識にとらわれない製品」としてアピールする必要があり,「Touch! Generations」戦略ができ上がった。
タッチにしろモーションにしろ,任天堂が発明したものではない。だが,ゲーム機にわかりやすい形で実装し,「Touch! Generations」ブランドで象徴的なソフトを供給することで,DSとWiiが「今までにないゲーム機」という印象を,多くの人に与えることに成功した。
このやり方は,1998年以降のアップルに似ている。スティーブ・ジョブズ時代のアップルは,これぞと思った技術にこだわり,他社が諦めても開発を続け,それを「わかりやすい進化点」に昇華させた製品でヒットを続けた。iMacは,PCを「インターネット利用」を軸にシンプル化したものだし,iPodは「大量の楽曲を持ち歩いて聴く」ことに特化して作られたものだ。iPhoneの初期の軸は「ネットが楽に使える携帯電話」としての開発だった。それぞれ,テクノロジーは独自ではないが,それを商品にまとめる際の「見え方」「手触り」が異なるため,消費者のニーズに合致する。2000年代のデジタルガジェットの必勝パターンは,スティーブ・ジョブズ氏と岩田 聡氏が握っていた,と言える。
ジョブズ氏と岩田氏の戦略の違いは,任天堂が「強力なコンテンツ供給源である」ということを,岩田氏が最大限に生かしていた,ということである。「Touch! Generations」は任天堂企画・他社制作,もしくは任天堂内製のゲームで使われたブランドだ。任天堂のハードウエアが持つ特徴を,任天堂の優秀なゲーム開発部隊が生かしてビジネスを組み立てる。ハードとソフトの両輪で市場の真ん中を爆走する,というやり方は,ブランド構築の面でも,収益拡大の面でもプラスであった。
しかもその時岩田氏は,任天堂が得意とするゲームが,低年齢層から大人まで,まんべんなく好かれる特質があることも生かした。ディズニーのクラシックキャラクターが多くの人々を対象としたビジネスで回るように,任天堂も広い層にアピールし,大きな収益を期待できる基盤を準備した。うまく回っている両軸を生かし,ブレの少ない戦略を組みたてたという上で,2010年までの岩田氏は,圧倒的に優れた企業戦略家だった,というのが筆者の分析である。
当然ながら,その「広さ」,言い換えれば子供にも大人にも不快感・トラブルの起きづらいビジネス構造を指向するというやり方は,今も続いている。子供たちにとっての「ファーストデジカメ」「ファーストネット機器」は任天堂製品であり,それを意識したセキュリティ対策や故障対策などは,やはり感服すべき部分であり,他社よりも強い部分であると感じる。
ソフト開発の「見積もり」でつまずいた3DSとWii U
Wiiは2010年末頃から,成長が踊り場にさしかかっていく。これまでの常識で言えば,据え置きゲーム機ビジネスの「収穫期」がやってくる段階で,すでに退潮が明確だった。
理由は,サードパーティー製ゲームでのヒットが薄かったことだ。「Touch! Generations」でうまくいったモーション系ゲームも,サードパーティーでは伸びきれない。任天堂以上にモーションをうまく生かしたゲームが,思ったほど出てこなかったのである。
サードパーティーの開発者は「モーション向けの開発がコストに合わない」と感じていた。モーションを使うといろんなことができるのだが,そのためには,微細なモーションセンサーから出るデータを読んで「それをどう生かすか」,開発を続けねばならない。任天堂は自社タイトルで,そうした使い方の試行錯誤を行い,ゲームに昇華している。だが,そのノウハウは開発キットに含まれていなかった。基本的な使い方はもちろんわかるが,データを「読むための勘所」の情報が共有されなかったのだ。結果サードパーティーからは,「強く振るだけ」のゲームが多かった。「センサーの0と255を読む」ような使い方なら簡単だったからだ。だが,大雑把な使い方では,ゲームファンは納得しない。すぐに飽きてしまった。
この頃,HD解像度の「古典的な構造を持つ,ゲーマー向けのゲーム」へのニーズは復活しつつあった。技術開発もこなれてきて,PlayStation 3やXbox 360向けのゲーム開発に,ゲーム開発者は慣れてきた。
任天堂は「任天堂が最大のブランド価値を持つ」市場だ。あえてそこでの勝負を避け,とくに海外のサードパーティーは,PlayStation 3やXbox 360やPCの市場へと移り始めていった。これが,現在のPlayStation 4のヒットにもつながる流れである。
ニンテンドーDSのライフサイクルが終了を迎えつつあったために投入されたのが,「ニンテンドー3DS」である。ここで任天堂は,「3D」と「モーション」を差別化の軸に入れた。そこが間違いだったとは,筆者は思っていない。
一方で,3Dやモーションを本気で生かしたゲームを作ろうと思うと,ニンテンドー3DSは性能面で不満の多いものだった。3Dを安定的に裸眼で見るための工夫にも欠けていた。市場は3DSを「性能が上がったニンテンドーDS」として捉えた。そこではそれなりの成果も満足度も得られており,結果的にヒットには結びついているのだが,ニンテンドーDSで得たような「今までにない体験による新しい消費者の獲得」はできていない。
すなわち,「ハードウエア戦略上の読み違い」の積み重ねが,今の任天堂の苦境をもたらした,ということでもある。
ただ,誤解しないでいただきたい。どのメーカーも,ハードウエア戦略では多少なりともミスを犯すものだ。PlayStation 3はGPU選択に失敗し,パフォーマンス不足に苦しめられた。Xbox 360は放熱設計のミスで大規模な製品交換サポートを必要とした。ゲーム機ビジネスはマラソンであり,計画を修正しながら進めるものだ。顧客のニーズが読みづらくなっている現在,修正能力はより高いものが求められる。
岩田任天堂の問題点は,ハードの戦略ミスを周辺機器の追加やハードウエアのリニューアルでカバーしようとしたことにある。ニンテンドー3DSには,従来以上にバリエーションモデルが多い。2014年には,実質的な進化モデルである「Newニンテンドー3DS」も出した。Wiiではモーションセンサーを補うため,「Wiiモーションプラス」を追加したり,体重計型の「Wii Fit」を出したりした。しかし,そうした「機能拡張」は,ソフトウエアや開発環境の充実でカバーすべきであり,消費者に変化を求めてもうまくいかない。周辺機器を買い足したり,新しいモデルに買い換えたりしてくれる人は多くはないからだ。ソフトやサービス面での改善は,消費者に買い換え・買い増しを強いない。企業側にかかる負荷は非常に大きいものの,プラットフォーム運営という意味ではプラスだ。
任天堂が弱い部分として「ネットワークサービス」も挙げられる。
任天堂はWii Uに合わせ,ネットワークサービスの刷新をする予定だった。アカウントを用意し,ダウンロード購入を促進できる環境を用意し,SNSとして,ゲーム内外からゲームのことを見て楽しめる「Miiverse」を作った。今,そうしたサービスは一部が実装できているものの,任天堂が想定した形とは異なる。任天堂が,岩田氏が構想していたのは,「ゲームの外でも任天堂のゲームの話題が流通し,常に触れていられるような環境」だったが,TwitterやFacebookとの競合・連携についての方針も弱く,結局,「ゲームの中で使われるコミュニケーションの一部」を超えることができなかった。
岩田氏は天才的なソフトウエアエンジニアであり,構想力もずば抜けている。一方,その下で働く開発チームは,全員が岩田氏ほど優秀ではない。比較的小さなハードウエアリソースの上で,岩田氏とそのチームが構想したサービスのすべてを動かすには,いろいろなものが欠けていたのだろう。発売後にも,システムソフトウエアが「一応の完成」と言えるまでに届くには時間がかかり,一部は妥協も必要になった。
ネットワークを中心としたソフト開発の見積もりの甘さと,そこに対する修正の不徹底は,天才技術者・岩田氏らしからぬミスとも思える。
DeNAとの提携は,「スマホビジネスへの参入」が軸として語られることが多い。だがその本質は,次期主力機種である「NX」に向けて,サーバーを中心としたネットワークシステムの開発力を高め,Wii Uの時に描いた理想を実現したかったのだろう……と,筆者は考える。
岩田氏にとっては,ここ数年のボタンのかけ違えを修正し,自らが理想とする形へと近づけていく狙いがあったはずだ。そのための激務が身体に障ったところはなかったろうか……。
「直接」情報を届ける時代の開拓者
従来も,そして現在も,ゲームというビジネスはゲームメディアとの関係なしには成立しない。過去にはゲーム雑誌と攻略本がその役割を担ってきたが,今はウェブメディアに負う部分が多い。ウェブメディアやゲーム雑誌と良好な関係を築き,彼らを半ばコントロールし,効率的にゲームの情報を提供し,「ゲームファンに定期的に買ってもらう」ことが,安定的なビジネスを支える。
テレビCMも重要ではあるが,一部のヒットシリーズを除けば,テレビCMよりもゲームメディアの方が効果が高い。ゲームビジネスとは,「ゲームを買ってもらうためのマーケティングと情報コントロール」までを含んでいる。それが機能しないスマートフォン向けのゲームでは,短命で収益が低いヒットに落ち着くか,テレビCMとネット広告に大量の予算をつぎ込むか,というパターンになってしまっている。良くも悪くもゲームビジネスは独特だ。それは,映画産業が強いインナーサークル性を持っていることとも類似する。
任天堂もこうした構造は重々承知している。というよりも,彼らが率先して作り上げた構造でもある。
一方で,岩田氏は,ゲームメディアの閉鎖性も気になっていたのだろう。ゲームメディアの他に,現在はブログやSNS,Wikiがある。それらはゲームメディアからの情報をソースとしつつも,自律的にゲームファンが,好きなゲームの情報を伝播するために使っている。その部分にアプローチした上で,より正確な情報が伝わっていくようにするには,彼らへ「直接」情報を届けるのがいちばんだ。
岩田氏が自ら出演する各種ストリーミング放送「Nintendo Direct」や,公式ウェブでのインタビュー企画「社長が訊く」は,そうした意図で行われていたものだ。
岩田氏が直接こうした情報の出口となれたのは,彼がゲーマーであり,任天堂ファンであり,彼らの心を良く知っていたからだ。だからこそ,多くの任天堂ファンは,岩田氏の人となりに触れ,親近感を覚えていた。今回の訃報に際し,多くのゲームファンが悼んだのは,彼の業績だけでなく,彼が任天堂のゲームを「伝えて売る」ために,ゲームファンの代表になろうとしたことにあったのだと思っている。
逆説的な見方として,直接対話はバイアスを生み,対話していない「広いファン」の姿を見えなくする。岩田任天堂が2010年以降苦しんだ理由の一端は,そこにあったのかもしれない。
しかし,もはや任天堂が「直接語る」のを止めることはあるまい。他社も似たことをするのが普通になり,「ゲームへのこだわりは,ゲームメーカーとその開発者が直接伝えるもの」へと変わりつつある。その効果は,バイアスによるマイナスよりも大きいだろう。
岩田氏は,任天堂の社長として,ニンテンドーDSとWiiという空前のヒットを生み,その後苦しんだ。だが筆者は,そうしたこと以上に,「企業とファンのコミュニケーションの形を変えた」人物として,高く評価したいと考える。やはりこれは,ゲームが好きで,任天堂が好きだった彼にしかできなかったことだ。どこか彼の中で,もはや「仕事」ではない部分があったのではなかろうか。
多様なネットサービスが存在し,自分が好きな時間に,自分が好きなものの情報にタップリ触れられる時代の象徴として,岩田 聡氏は,さまざまな影響を残した。
今頃は,多忙さから解放され,好きなゲームをゆっくり楽しんでおられるのではないだろうか。
任天堂の岩田 聡代表取締役社長が逝去
小寺・西田の「金曜ランチビュッフェ」
- この記事のURL:
キーワード