インタビュー
任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」
エンジニアとしての岩田氏の顔
川上氏:
話は変わるんですけれど,岩田さんって,元々は「スーパープログラマー」だったんですよね?
岩田氏:
んん。いや,まあ……自分で言うのは抵抗ありますし,そもそも自分でそう言ってたわけではないですし,今の基準で本当に「スーパー」だったのかどうかはわかりませんけど(笑)
川上氏:
まぁでも,他人からそう思われる時代は確かにあったわけですよね。HAL研究所時代とかは。
そうですねぇ。HAL研究所に入ってからある時期までは,「ビデオゲーム業界で,ソフト技術面で自分より秀でたエンジニアはいない」と,そう自惚れていた頃は確かにありました。「任天堂のエンジニアの誰にもファミコンのプログラムなら俺は負けない!」とか「自分が一番速くてコンパクトなコードを書けるんだ!」って思っていましたから。
川上氏:
でも,マネージメントとか経営の方にいって人を動かすようになると,自分でコードは書けなくなりますよね。
岩田氏:
そうですね。
川上氏:
そうすると,もの凄く悩むことが多いじゃないですか。マネージメントをやるのか,それともコードを書いていきたいのか,みたいなことで。岩田さんも,そういう葛藤とかってあったんですか?
岩田氏:
ああ。私の場合はですね。コードは書き続けていたんですよ。40歳までは。
4Gamer:
ええっ,そうだったんですか?
岩田氏:
はい。まぁ,もちろん平日昼間に黙々とコードを書くとかは無理なんですけど,「夜は俺の時間だー!」みたいなね。あるいは,休みの日に仕事を持って帰って自宅でコードを書いて,面白いものが出来たら,月曜日に「こんなの出来たんだけど」ってみんなに見せると,喜んでくれたりするのが面白くてね。
川上氏:
へえー!
岩田氏:
まぁ,昼間はマネージメント業務をしないと会社が回らないので,そちらをやっていましたけど,コードを書くことは辞めませんでした。
川上氏:
えっと,じゃあ,エンジニアとしての最後の仕事はなんだったんですか?
岩田氏:
うーん。これ,言っていいのかな。まぁ,もう時効だと思うんで話しちゃいますけど,私が最後にプログラムに関わる仕事をしたのは,任天堂の経営企画室長時代ですね。ゲームキューブ版の「スマッシュブラザーズ」が,このままだと発売日に間に合わないっていう事態に陥って。私がその,コードレビューやら何やらをやったんですよ(苦笑)
一同:
(爆笑)
川上氏:
それ,どう考えても経営企画室長の仕事じゃないですよね(笑)
岩田氏:
そうなんですけどね(苦笑)。でも,その時は山梨のHAL研究所に行って,臨時の「デバッグ隊長」をしたんです。コードレビューをして,バグを直して,人が書いたコードを読んで直して,それから任天堂から送られてくる山ほどのバグリストを,これは誰それのパートだと仕分けして,みんなに配って歩き……っていうのを3週間ぐらいやったんです。それで,なんとか間に合ったんですよ。
川上氏:
あまつさえ,デバッグまで自分でやったんですか!
岩田氏:
それがね,たぶん自分が現役エンジニアとしてやった最後の仕事なんです。それこそ,一番テンパってるプログラマーの横に張り付いて,一緒にコードを読んで,「あ,ここがバグ!」とか言って直したりしてましたからね。
川上氏:
超面白い話ですね。でも,それが最後っていうことは,やっぱりその後のどこかで,現役のエンジニアに勝てない部分とかが出てくるわけですよね。
岩田氏:
現場から離れていると,どうしてもそうなりますね。原理原則は分かっていても,自分の技術をアップデートする時間が取れませんから。だから,「あれってどういうことなの?」って分からなくなっていくんです。
ただ,私は今もシステム系の開発部門は直轄で見てるんですけど,彼らがやっていることはときどき説明してもらってるんですよ。そうすることによって,自分の判断基準が古びていくのを,なんとか防ごうとあがいています。
川上氏:
それはずっと続けているんですか。
岩田氏:
続けてます。なんといいますかね。「日本で一番プログラムのことが分かっている上場企業の社長という地位は,まだ捨てたくない!」と個人的には思っていますから。
一同:
(爆笑)
ゲームは遊ぶより作る方がずっと面白い
プログラムつながりで,これは前々からお聞きしてみたかったんですけど,岩田さんは「MOS 6502(※1)」のスペシャリストだったってお話があるじゃないですか。岩田さんが一番最初に買ったPCが,6502を搭載している「Commodore PET 2001(※2)」で,学生時代にそれを使い込んでいたから,6502の――ファミコンのソフト開発のスペシャリストになったんだという。
※1:アメリカのモステクノロジー社が1975年に発表した8ビットCPU。本CPUをベースに追加機能が盛り込まれたものがファミリーコンピュータやPCエンジンに採用されている。
※2:コモドール社が1977年に発表したコンピュータ。家庭向けのパーソナルコンピュータとしては世界初のものとされる。
岩田氏:
ええ,まあ。
川上氏:
でも,6502といえば,普通は「Apple II(※)」の方だと思うんですけど,なんで「Commodore PET 2001」だったんですか?
※アップル社が1977年に発表したパーソナルコンピュータ。当時主流だったマイクロコンピュータと違い,キーボードやモニタなどがワンパッケージになっていたのが大きな特徴であった。
岩田氏:
いや,あの。単純に高くて買えなかったからです……。私が大学に入った頃ですが,確か65万円くらいの値段で。当時の私には,ちょっと手が出なかったんですよ。
川上氏:
そんな値段だったんだ。高いですね。
岩田氏:
でも,「Commodore PET 2001」は,29万8000円で買えたんです。この値段は,自分の大学入学祝いを頭金にしてローンを組めばなんとか買える価格だった。大学入学と同時に手に入れられる値段だったんですね。それが理由です!
一同:
(笑)
川上氏:
「Apple II」は買えなかったと。
岩田氏:
はい。とても欲しかったんですけどね。
川上氏:
そのときに「Apple II」を買ってたらどうなってたんですかね?
岩田氏:
ちょっと違う人生を歩んでいたかもしれません。
川上氏:
ゲームソフトとかも結構ありましたしね。
岩田氏:
たくさんありました。ただ私は,ゲーマーって意味でいうと,プレイする側としては「自分はへぼゲーマーだ」と思っていて。すぐに作る方の面白さに目覚めたんです。あ,もちろん,ゲームで遊ぶのは好きでしたよ。でも,「遊ぶより作る方がずっと面白い!」ってすぐに思ったんですよ。
4Gamer:
ゲームを作られてる方は,みなさんそうおっしゃいますよね。
岩田氏:
だって,自分が作ったモノで,人が驚いたり,楽しんでくれたり。「え,そんなことができるの?」って言ってもらえたりすると,ほんとにもう,最高に嬉しいわけです。だから,あのBASICしかなかった時代に,プログラムをハンド・アセンブルにかけたりしてね。
4Gamer:
ハンド・アセンブル?
岩田氏:
ああ,ハンド・アセンブルって,もう死語かもしれませんね(苦笑)
川上氏:
死語ですねぇ(笑)
岩田氏:
要するにですね。人間が理解しやすいように書かれたプログラム(アセンブリ言語)を,今だと,アセンブラってツールを使って機械語(コンピューターが直接実行できるバイナリコード,すなわち2進数の羅列)に変換するんですけど,当時はそんなものがなかったから,全部自分でバイナリコードに変換して手打ちしてたんですよ。自分の手で変換するから、「ハンド・アセンブル」って呼ばれていたんです。
4Gamer:
あ,なるほど。
岩田氏:
そうやってCPUが実行できるバイナリコードを自分で書いていって、ボトルネックになっている重い処理の部分を書き換えたりすると,ゲームのパフォーマンスが100倍になったりしたんですね。
それにあの頃は,インターネットどころか,紙の資料すらもなかったんです。全部手探りで作っていくしかない時代でした。だから,そんな技術を持っている人は周りに誰もいなくて,出来たものを知人とかに見せると,みんな「どうやったんだ?」とか言うわけですよ。私はね,それが面白くて仕方がなかったんです。
川上氏:
でもそれ,どうやって調べてたんですか?
岩田氏:
一番最初は,「Commodore PET 2001」の中に入っていた「Commodore BASIC」を解析するところからですね。これは,ビル・ゲイツさんが作ったと言われているものなんですけど。
川上氏:
あ,そこから始めたんですか(笑)
岩田氏:
だって,どうしたら画面が出るのかとか,どういう仕組みになってるのかとか,何も分からない状態でしたからね。
川上氏:
それ以前にあの頃って,ちゃんとしたマニュアルとかもなかったですよね。
岩田氏:
そうそう。ないんですよ(笑)。だから,まずディスアセンブラっていう,機械語を解析するためのソフトを作るところから始めるわけです。それに,なんとか機械語を解析しても,当時はプリンタなんてものはなかったんです。だから,全部手書きで紙に書くわけです。画面に出てくるソースコードを見ながら。
川上氏:
写経みたいですよね。
岩田氏:
本当にそう。まさに写経なんですよ,あれ!
一同:
(爆笑)
川上氏:
それはつらいですね。
岩田氏:
だから,日本で初めて「Commodore PET 2001」用のプリンタが出たとき,コモドールジャパンまで行って,「これを印刷させてください!」って頼んで印刷させてもらいましたからね(笑)
川上氏:
僕は「パソコンテレビX1(※1)」で機械語を覚えたんですけど、当然、機械語の資料なんてどこにもない。たまたま、知り合いの大人がZ80のニーモニック一覧(※2)というA4の厚紙1枚を三つ折りにしたパンフレットみたいなものだけ手に入ったんです。しかも,それには,機械語のバイナリーコードと対応するニーモニックが書いてあるだけで。「この記号はどういう意味なんだろう?」とか「LD命令とはLOADという単語を縮めたのかな?」みたいなところから手探りで機能を想像していたんです。
※1:1982年にシャープより発売されたパーソナルコンピュータ。ホビー寄りだったのが大きな特徴で,対応ゲームも多数発売された。
※2:ニーモニックとは,機械語を人間に分かりやすく(プログラミングしやすく)するための簡略記憶記号のこと。
岩田氏:
そう,だからね。あの頃のプログラムって,まるで考古学みたいというか。限られた資料から,暗号を読み解くみたいな作業だったんです(笑)
川上氏:
完全に暗号解読でしたよね。
岩田氏:
はい。でも,私も学生の頃は時間だけはありましたから,朝から晩まで,そんな暗号解読みたいなことをずっとやっていました。
インターネットがなくてよかった
岩田氏:
まぁ,大学時代はそんな感じだったんですけども,私は,高校生の頃も電卓でゲームを作ってたんですよ。ヒューレット・パッカードの「HP-67(※)」というプログラマブル電卓なんですけど。
※1976年に販売されたポケットプログラム電卓。磁気カードを使ってプログラムを格納することができた。
川上氏:
それのCPUはなんですか?
岩田氏:
公表されてないので,私にもCPUは分からないんですけど,HP-67自体は本当にプリミティブ(根源的)なことしかできないコンピュータでした。でも,一応は簡単な分岐とかフラグ処理はできるようになっていて,それで高校の授業中にゲームっぽいものを作っては,隣の席の友達に見せたりしていたんです。
川上氏:
いやぁ,ほんとに根っからのプログラマーなんですね。
岩田氏:
でも,そのマニュアルも超分かりにくくてですね。いかにも「英語を直訳しました」みたいなものだったんです。でも,あの頃はそれを穴が空くほど読み込んで。やっぱり時間だけはいくらでもありましたから。たぶん,あの当時,私は日本一あの電卓を使いこなせる高校生だったと思います(笑)
一同:
(笑)
岩田氏:
あの時は,「スタートレック」をテーマにしたゲームを自作したんです。本体は224ステップのプログラムしか格納できないというものすごい制約の中で、磁気カードを6枚使うことでその制限を乗り越えた自分としては,すごい力作……というか,あれが電卓プログラマー人生最高の力作なんですけど,それを日本のヒューレット・パッカード社の代理店に送ったら,向こうの人がえらく驚いてくれて。山のように資料を送ってくれたんです。それからは「HP-67」の資料には困らなくなりましたね。
川上氏:
まぁでも,あの頃は資料を手に入れるのが本当に大変でしたよね。
岩田氏:
ええ。今みたいにGoogleが教えてくれたりはしないですからね。だけど私は,余計な苦労もしましたけど,「あの資料がない時代に生まれてよかった」と思ってるんですけどね。
川上氏:
はい,それはよく分かります。
4Gamer:
それはなぜですか?
岩田氏:
だって,「仮説構築力」を鍛えるのに,あんないい訓練はなかったですよ。あれ,いわば「大リーグボール養成ギプス」みたいなもので(笑)
一同:
(爆笑)
いや,本当にそうですよね!
岩田氏:
検索ワードを入れてすぐに答えが返って来たら,何も考える必要がないじゃないですか。だけど,あの頃のプログラムは暗号状態ですから,断片的にちょっとずつ散らばっている情報を寄せ集めて,「これとこれをつなぎ合わせたら,こうなるんじゃないか?」という試行錯誤を,考えながらやっていたわけです。これはね,やっぱり相当鍛えられたと思います。
川上氏:
思考力が鍛えられますよね。
岩田氏:
はい。だから,「インターネットがなくてよかったな」と,私自身は思っているんです。
川上氏:
そうですよね,うん。あの,ここであえて,すごい老害的な発言をしたいと思うんですけど。僕は,今の若い人は駄目だと思っていて(笑)
一同:
(爆笑)
岩田氏:
いやいやいや,別に駄目だとは思わないですよ。すごいところはすごいと思います。
川上氏:
もちろん,すごいところはすごいんですけど,明確な弱点がある気がします。何かっていうと,情報に恵まれすぎているから,「情報が欠落したときの対応力がかなり低いんじゃないか」ってところです。
岩田氏:
けっこう弱いかもしれませんね。その話でいうと,過去についてのデータはいくらでもあるんですけど,未来についてのデータって,当然ないわけじゃないですか。だから,未来っていうのはすごく不確実なものなんですけど,実際のビジネスって,未来と向き合うことなんですよね。
川上氏:
はい。
岩田氏:
未来に向けた取り組みって,自分の感覚が当たることもあるし,外れることもあるわけですけど,少なくとも,その正解がGoogleで探して見つかることは絶対にないわけです。もちろん,過去を調べることが,将来の予測を立てる参考にならないわけではないし,調べること自体が無価値だとは思わないですよ。ですけれど,「ネットリテラシーがあれば大丈夫!」みたいなのは,「ちょっと違うかなぁ」って気はしていますね。
川上氏:
そもそも,Googleで得られる情報って,実は結構限られたものじゃないですか。ネットに転がっている情報なんて,世の中にある情報のほんの一握りでしかないんですけど,そのことに対する想像力が,ちょっと欠けているところがあるんじゃないかなっていうね。「ネットにある情報が世の中のすべてだ」と思ってる人って,結構いるんじゃないかって気がするんですよ。
岩田氏:
そうですね。
川上氏:
それに僕は,時代の端境期(はざかいき)を経験した人――例えば,アナログからデジタルへの移行期だったり,プラットフォームがどんどん移り変わっていた時代を経験している世代の強さっていうのもあると思っているんです。
ゲームの開発者の世代にしても,黎明期のパソコンやファミコンのゲームを作っていた世代って,本来は,もっと強さを発揮できる,むしろ今の時代こそ活躍できるハズなのに,ゲーム開発が大規模化,複雑化していく過程で,多くが脱落してしまったんじゃないかと思うんです。僕はそれは,本当にもったいないと思っていて。
岩田氏:
そうですね。やっぱり,黎明期の「無から有を生み出す」ことをたくさんやってきた人達というのは,他では得難い経験をされてきた世代だと思います。何かを参考にしてものづくりをするんじゃなくて,「人間ってこういうことが面白いと感じるよね」っていうのを見つけて,それをプログラムというもので形にしていって,プロダクトに仕上げて,世の中に問うて,その反応を味わっているわけですからね。
川上氏:
たぶん,そういうのが今こそ必要なんじゃないかなと思うんです。今はやっぱり,分業がよくないなって思ってるんですよね。分業しないで,物事を設計する人が生まれるにはどうしたらいいんだろう。
岩田氏:
私は別に,分業したら人が育たなくなるかというと,そんなことはないと思うんです。私が思うに,成長する人っていうのは,「自分の担当領域部分以外にどれぐらいの野次馬根性と興味があるのか」っていう部分が結構重要な気がしていまして。
川上氏:
はい。
岩田氏:
だから,同じ仕事をしていても,自分がやっていることが,周りの人にどういう影響を与えて,それは全体のなかでどういう位置づけになっていて,自分の担当以外の場所では何をやっていて,どんな問題があるのか――とかね。そういう部分にまで興味を持って踏み込んで行く人っていうのは,やっぱり同じ経験をしても,成長の度合いが違う気がするんですね。
もっと言えば,「人が変わっていく」ということの重要な構成要素として,野次馬根性――すなわち「好奇心」っていうものが,すごく重要な要素になっているなと,よく思うんです。
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